蜃 気 楼 都 市

- Mirage Polis -

そこには“絶望”という名の海原が広がっていた。

--- クンズ・オードル“西方遊見記”より
 ……マトレイト。
 太古、そこは一面緑の原であったと伝えられている。聖真教導教の“聖伝”においても、マウラの神の教え“ナルガ”によっても、人間が一番最初に築き上げた地上の楽園はマトレイト平原の直中にあったとされているのだ。
 だが、現代の旅人がイスルノアの山々の頂に立って眼下を望んだならば、彼が目にするのは遠く地平の彼方まで続く砂の堆積だけであろう。
 そう、現在のマトレイトは《大陸》の東西に併存する二つの文明圏を分かつ境界領域としてのみ存在する《大陸》最大の大砂漠なのである。東暦七世紀に《大陸》を横断して“西方遊見記”を記したマウテギオンの商人クンズ・オードルによれば、その広さは東西五百五十リディ(三千八百キロメートル)、南北三百リディ(二千キロメートル)にも及ぶという。
 しかし、そのマトレイト大砂漠は全くの死の世界という訳でもなかった。《大陸》の背骨イスルノア山脈に面した南側と、はるかカムゴパ大草原へと続く北側の両端には細々としたオアシス群が続き、それらの点をつないだ二本の“線”がそれぞれ南マトレイト街道、北マトレイト街道と呼ばれている。二つの街道はカムゴパ平原の北、ティタール海を渡る北海路と並んで、東のマウラ教圏と西の聖真教導教圏を結ぶ“《大陸》の大動脈”でもあった。
 そして、その二つの街道のうち、北マトレイト街道で最大のオアシスがオル・ラハートだった。その起源は遠く東暦六世紀にまで遡ることができる。マトレイトで最大にして最古の“生きた”オアシス都市、それがオル・ラハート王国であった。
*
「……ふむ。今イチしけた都市だな」
 ある日の夕刻、このオル・ラハートの北門に立つ一人の人物があった。
 立派な体格の男である。身長は軽く一リラーイを五リサ以上越えるだろう(一リラーイは百七十二センチメートル)。砂漠の暑さを避けるために全身をすっぽりと砂色のマントで覆っているが、その上からでもたくましい胸板の厚さや、剛力を秘めた上腕部の太さが容易に想像できる。日除けに頭に巻いた布の下から覗いた黒い蓬髪や、そのまた下で意志が強そうに輝いている瞳の色から、男が《大陸》西方の生まれであることも類推できるであろう。
 背中に巨大なブロードソードを背負ったこの男、名をヴェスラ・テスラニオンという。通称はテオン。人並外れた体格の割に、西方人としてはひどくありふれた名前ではある。
 灼熱の陽炎踊る炎天下のマトレイト砂漠を踏破するという、ちょっと簡単には信じられない無謀を果たした彼はたった今このオル・ラハートに到着したばかりだった。
「取り敢えず、今日は久しぶりに布団の上で寝られそうだな」
 背負ったバスターソードを揺すり上げて、彼は門へと向かった。
 都市国家であるオル・ラハートは四囲を日干し煉瓦の城壁で囲い込んだ城郭都市でもあった。東西南北に各一ヶ所ずつ、城門が設けられている。
 テオンは鋲で表面に鉄板が貼られた大きな城門を潜って、中へ入ろうとした。
 と、その目の前で。
 かつんっ!
 二本の鋭利な槍が交叉し、彼の行く手を塞いだ。
「貴様、何者だ? このオル・ラハートへ何の用で来た?」
 門番が二人、きつい瞳を不審の色に染めて彼を睨んでいた。
 一触即発の切迫した誰何に対して、テオンはひどくのどかな声で答えた。
「俺の名はテオン。何の用もクソも、東のマウタスラから西のミ・ネイオンに向かう途中、一夜の宿を借りるために来た」
「マウタスラからだと? あの国は今反乱が起こっていて、世情がひどく不安だと聞いたが?」
 門番が重ねて尋ねる。
「だから、俺はそのマウタスラでアニラト派とかゆー謀反人たちをやっつけた報奨をもらって、クニに帰る途中なんだよ。ほれ、マウタスラ王直筆の証書だ」
 テオンは懐から取り出した樹皮紙を無造作に差し出した。
 《大陸》においては宗教の統一はなっていなかったが、古代に唯一成立した《大陸》全土を版図とする大帝国のおかげで文字と言葉はほぼ単一のものが通用する。
 門番たちは頭を寄せ合って、テオンの示した証書に目を通した。
「お前、俺たちみたいな下っ端には字が読めないと思っているだろう? 馬鹿にするなよ。えーと、なになに。『この者は先の謀反事件に際して朕ニハムオル・マウタスラに対して多大なる貢献があった。そこで、朕はこの者に“鋼の法護者(ティルス・ロ・マイオン)”の呼称を与え、終生マウタスラ法国への出入りを自由とする』だと? おいおい、“法護者(ロ・マイオン)”といえばマウラの聖人(サイント)に与えられる呼称としても決して下の方じゃないぜ?」
「この証書、ほんものなのかよ?」
「その署名と花押を確認してみたらどうだい?」
 テオンの自信たっぷりの言葉に、門番たちは不承不承ながらも納得した様子だった。
「よし、わかった。通ってよし。だが、マウラの聖人だからといって、町中ででかい顔をするんじゃないぞ。このオル・ラハートの人間の半分はマウラの教えに従うが、残りの半分は違うからな」
「その辺は分かってるよ。俺だって全面的に絶対神マウラに帰依している訳じゃない。マウタスラは祭政一致だからな。王が出来のいい傭兵に与える報奨が聖人の位だったりするんだ。ほんとは金の方がよっぽどありがたいんだがな」
「やれやれ。とんだ“なまぐさ聖人さま”だな」
 門番たちの苦笑を受け流して、テオンはオル・ラハート市内に入ることを許された。
 見上げるほど巨大な城門をくぐって、城郭の内部に至る。
「おっとォ。こりゃ、あまり馬鹿にしたものでもないな」
 町の風景をざっと眺め渡したテオンの唇から低い口笛が漏れた。
 時分は夕刻である。灼熱の昼と極寒の夜が交互に訪れる砂漠気候のオル・ラハートでも一番過ごしやすい時刻とも言える。
 昼間、日の光を避けて日干し煉瓦造りの家に閉じこもっていた人々がわらわらと通りに姿を現していた。砂漠の都市に一時だけ訪れる喧噪の時間である。
 昼間動けなかった分を取り返すようにせかせかと歩く人々。騎獣のいななき。
 背中にこぶを持つ四足の騎獣カウメルの背中に異邦の珍品を満載した隊商(カウメ・ラン)が出発の準備をしている。本職の砂漠の旅人はああやって灼熱の昼間を避け、月の光を頼りに夜行するのが常套である。
 そして、その隊商に地元の商人たちが様々なものを売り付けようと群がっている。
 その様は遠く東の大都市マウパズナウの自由市場オラ・ヌウや西のエラス・パルアで有名な繁華街ラカナトーの雑踏に酷似していた。
 テオンの周囲にも、明らかに客引きと判る女たちが群がってくる。
「ちょいと、にいさん。驚いたね。あんた、ひょっとして真っ昼間のお天道さまの下を歩いてきたのかい?」
「そら大変だったろう。ほら、マントが埃ですっかり白くなっちまってる。うちの宿においでな。ふかふかの布団が待ってるよ」
「何言ってんだい。うちに来れば、きれいな水で身体を拭くことができるんだよ」
「うちなら、美味しい料理と酒が……」
「あー。解った解った。解ったから、喋るのは順番にしてくれ。残念ながら、こちとら宿代に出せる金額にゃ限りがあるがな」
「ちっ。なんだい。それをさきに言いなよ」
 いかにも食い詰めた旅人のようなテオンの風采と言葉に、女たちは潮が退くように彼の周りから去っていった。残ったのは、五十歳は確実に過ぎているであろうと思われる老婆一人だけだった。
「ばーさん、俺はあんまり金を持ってないんだぜ」
 重ねて言うテオンにも、老婆は動じなかった。
「わたしゃ別に耳が遠い訳じゃないよ。うちは安宿だからね。客の選り好みができないんだよ」
 頑固そうな老婆の言葉に、テオンは破顔した。
「素直だねぇ。気に入った。今晩の宿はあんたのとこにしよう」
「値段の交渉はしなくていいのかね?」
「自分から『安宿だ』なんて言うくらいだから、そんなにぼったくるわけじゃないだろ? いざとなりゃ、懐に銀の延べ板が何枚かあるしな」
「あんた、それが『宿代に出せる金額に限りがある』奴の台詞かの?」
 老婆の質問に、テオンは器用にウインクして見せた。
「銀の延べ板は郷里のお袋さんへの土産でね。遣い込んじまうと、お尻をぺんぺんされちまうんだ」


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